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こころのアポリア 幸福と死のあいだで / 小林康夫 のなかに”青の神秘”という章がある
こころのアポリア 幸福と死のあいだで / 小林康夫 のなかに”青の神秘”という章がある
そこで紹介されていたのがこの映像 Viktor & Rolf FW 2002/03 Blue Screen Chromakey
クロマキー、というのはCG合成用の映像を撮影する時に、背景を青や緑にする技法のことで
人間の肌の色の補色であるという単純な理由で青や緑が選ばれるようだ
人間の肌の色の補色であるという単純な理由で青や緑が選ばれるようだ
このショーでモデルが着ている服の青色の部分は、この”クロマキー技法”によって他の映像とすり替えられていく
するとスクリーンに映るモデルたちの姿は、空間を内包したかのような奇妙な状態になる
するとスクリーンに映るモデルたちの姿は、空間を内包したかのような奇妙な状態になる
小林康夫はこの本の中で
ユーリイ・ガガーリンが「地球は青かった」と言ったときに青という色が宇宙的意味を持ち始めたことに触れ、本来自然界にほとんど存在しない青色は、物質の色ではなく、非物質的に広がっていく空間の色なのだと語る
ユーリイ・ガガーリンが「地球は青かった」と言ったときに青という色が宇宙的意味を持ち始めたことに触れ、本来自然界にほとんど存在しない青色は、物質の色ではなく、非物質的に広がっていく空間の色なのだと語る
そのためこのクロマキー技法を用いた青い服は、単なる新奇性のための試みではなく この技法によって服の物質性を削ぐ「非物質万歳!」というアプローチであるということだ
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ちいさな頃テレビのなかで青い薔薇を作る難しさみたいな番組が流れていて、映っている青い薔薇と呼ばれる花を見て紫色じゃんなんて思っていたことを思い出す
海の青はひとすくいすれば透明になって逃げてしまい
空の青に手をひたすことなんて私たちにはできず
地球の青なんてなおさら、ほとんどフィクションの世界でしかない
海の青はひとすくいすれば透明になって逃げてしまい
空の青に手をひたすことなんて私たちにはできず
地球の青なんてなおさら、ほとんどフィクションの世界でしかない
頭じゃわかっていたって地球のイラストレーションを何度も見たことぐらいしか
私にとっての「地球は青い」という証拠なんてないのだ
私にとっての「地球は青い」という証拠なんてないのだ
考えてみれば、やはり、青はどことなく、触れられない色/実体のない色であった
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今や何十億本ものジーンズを青く染め上げているインディゴはかつて染料として用いることが非常に難しかったらしく
腐った尿を用いてなんとか溶解させ( ! )布を染めていたそうだ
腐った尿を用いてなんとか溶解させ( ! )布を染めていたそうだ
そこまでして青色を得たかった人々の実験の積み重ねによって、今や青色は生活の中にありふれた色になっている
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Viktor & Rolf FW 2002/03 Blue Screen Chromakeyでは
かつてあんなに焦がれ、難しく、貴重で、重要だった”青色の服”をすべてのモデルが身にまとう
そして彼女たちがランウェイに登場した瞬間、肌に触れる実体としての服からは青がすっぽりと消え、空、海、動物、草花、交通渋滞…と、青色は別の空間にすり替わってしまう
かつてあんなに焦がれ、難しく、貴重で、重要だった”青色の服”をすべてのモデルが身にまとう
そして彼女たちがランウェイに登場した瞬間、肌に触れる実体としての服からは青がすっぽりと消え、空、海、動物、草花、交通渋滞…と、青色は別の空間にすり替わってしまう
スクリーンと実物のモデルを往復する目は、青いと信じて海の水をひとすくいしたときのようなかるい裏切りを感じるのだ
青色を単なる空間への代替物として扱うこの態度は、ようやく獲得できた、”青い服の物質性”を再び消し去ろうとするアプローチだと感じる
(1958年 イヴ・クラインが「空虚」展にてがらんどうの白い展示室を展示したときも、確か青色の「非物質化」だった
制御しかけてしまったインターナショナル・クライン・ブルーを、観客の心の内側に止めることで もう一度手に触れられないものに戻そうとしたのかもしれない)
制御しかけてしまったインターナショナル・クライン・ブルーを、観客の心の内側に止めることで もう一度手に触れられないものに戻そうとしたのかもしれない)
それから40年も経った現在において Viktor & Rolfは
青という色の神秘性を用いて服の非物質性を獲得しているのではなくて
手に入れた青を再び触れないものとして失うことで、青という色の神秘性を取り戻そうとしているように思う
青という色の神秘性を用いて服の非物質性を獲得しているのではなくて
手に入れた青を再び触れないものとして失うことで、青という色の神秘性を取り戻そうとしているように思う