– 「人間の雌の老化とは、すなわち、審美面、機能面における、おびただしい数の特質の劣化であり、そのうちのどれが最も苦痛であるかを判断するのは難しい。あまりにもその数が多いため、ほとんどのケースにおいて、自殺の原因をこれだと限定するのは難しい」「雄については、状況はかなり異なるようである。雄の場合、雌と同様あるいはそれ以上に、審美面と機能面に劣化を被りながらも、ペニスに勃起能力があるうちは、苦痛に打ち勝つことができる。ところが勃起能力が決定的に失われると、通常、二週間で自殺行為に及ぶ」
– ダニエル17の注釈 「ある島の可能性」/ Michel Houellebecq
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01 なまぐさい身体 - 脳の片隅に入り込んだ空間
衣食住そして生理的欲求にも重ねて含まれている「食」ほど、生きることに必須でありながら個人差が大きなものもない。睡眠も排泄も、どんなに怠惰に行おうが、行うことさえできていればそこまでの差は開かない。衣服と住居については贅沢な方向に走れば天井知らずだが、身体はどうせ一つしかないという事実に随分助けられている。しかし食事は、1日あたり男性で1,800kcal、女性で1,600kcal ( あまり運動しない、というくくりでこれだ )、食べれども食べれども際限なく無限に続いていくなか、購入するか、調理するか、個人の裁量で決め続けなければいけない。
さらに恐ろしいのはその内容によって、 “審美面、機能面における、おびただしい” 影響を受けるという点である。( ブルーベリーは目にいいよとか海藻で髪が綺麗になるとか青魚で頭が良くなるとかコラーゲンで肌がプルプルだとか ) 真偽問わず留まることを知らないこの”おびただしい”影響こそ、社会の状況がどんなに変わり、台所仕事が女性の手を離れてもいいのだとあらゆる方面から言われたとしても、われわれが台所やスーパーマーケットに意識の一部を奪われてしまう原因である。
女性だけが意識を奪われている?身体を気遣わなくてはいけないのは男性だって同じで、現代で食を気遣うことは男女関係ない仕事だろう、と言いたいけど、どうも自分の身体を”投げやりに扱いやすい”のは男性の方みたいだ、という感じはする。これは、男性は杜撰でしょうがないわねと呆れたい気持ちというより、せせこましい生活なんて一旦頭から追い出しておいて、寝食を忘れることができる性質が”どちらかと言えば男性に備わいやすい”ことへの羨ましさに近い。女にはそういうことができないとまで思わないけれど、どこか身体に対して無頓着になることを恐れやすい。
例外はあれど、そこに差異があるとしたらそれは一体なんなのか。男性の身体が80年ほどで幕を閉じるものであるとして、女性の身体は継ぎ足し継ぎ足しされているタレみたいなものなのでは、と思うことがある。”おびただしい数の特質の劣化” のなかでも最も不明瞭で不確実な産む能力にうっすら振り回されていて、身も蓋もないことを言えば、ある日ぱたっと生理が来なくなることへの恐怖心がつねに少しだけある。子供を産むことが人生の目的だとか女の果たすべき役割だと思ったことは一度もないし、産めない身体がたくさんあることを知っているし、自分がそうかもしれないことも知っている。そうはいっても、(産むかもしれない身体)|(子を育てなければいけない身体)の間の仕切りを何歳まで遅延させていくべきか、みたいな感覚がずっと頭の片隅にあるにはあって、自分の不摂生によりある日とつぜん(産めない可能性の高い身体)を突きつけられるのはやはり怖い。そして、その仕切りがどのあたりの位置にあるにせよ、つまりは自分が(産むかもしれない身体)だろうと(子を育てなければいけない身体)だろうと、「食」「台所」「調理」などは客体化して語るには少し近くにありすぎて、「建築の問題」として外部において初めからドライに語りはじめることは難しい。
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02 不透明な身体 - 地に足のつかない空間
そういうわけで、もしかしたら女を精神的に台所に閉じ込めているのは社会的慣習でも台所の配置や形状の問題でもなく、身体的特性なのではとうっすら思って、昨晩はなんとなく足枷をはめられたみたいな気分になっていたのだった。その個人間の差異による難しさは、おそらく昨日の[Many Kitchens vol.1]オンラインイベント(以下、zoomイベント)での、登壇者それぞれの立場の不明瞭さにも繋がっていたように思う。キッチンを縮小し軽やかにすること・あるいは無くしてしまうこと、に対する議論もたびたび出たけれど、「新しいキッチンの形式」を考えるにはまずはそちらに振ってみるのが当然という流れであって、強く縮小を提示したいという話ともまた少し違っていた。そもそもこれからの時代の、単身あるいはパートナーや家族との家庭内分業のロールモデルが不明瞭で、今後の彼ら自身がどこまで家事を自分ごととして扱うことになるのかもわからないまま進む議論のうち、遠い国の異文化の話以外をドライに語りきる特権は彼らでさえも持っていないのかもしれなかった。
そんなことを先輩とぽつぽつ話していたら、(いつかのcasaに女性とその母親の二人暮らしで、キッチンのない住宅が載っていた気がする)との情報をもらった。調べてみたら、おそらくイイヅカアトリエ設計の『キッチンのない家』のことである。
“その打ち合わせは大変ショッキングだった。住宅の設計においては通常女性が主導権をとることが多いが、その場合キッチンは、打合せ項目の中でもプライオリティが高い。(中略) あらゆるキッチンの配置を検討し、出来るだけさりげなく計画をした。しかし建主は一言、「料理はしないからキッチンは必要ない」と言われたのである。その打合せから設計はスムーズに進んだ。なぜなら、設計者の既成概念によって計画された家から、生活の大半を仕事に費やす究極の都市生活者が真に望む家となったからである。”
この家は、母親の部屋、パブリックスペース、娘の部屋の3階建の都市住居で、パブリックスペースと名付けられた中間階は、大理石の床があるのみである。母と娘の2人住まい、新築、そして台所なし。これを軽やかと見るか、諦念と見るか、風変わりと見るか、新しいと見るかは意見の分かれるところだろう。この家の”キッチンのなさ”は素直に空間の自由度に繋がり、その役割は完全に都市空間が肩代わりしている。
都市空間に機能の大半を委ねた“究極の都市生活者”と聞いて多くの人が思い出すのは、zoomイベントでも度々言及されていた『東京遊牧少女の包』 / 伊東豊雄 だろう。インタビュー記事を掲載しておく。
“ここで独り者の女の子を選んだ理由は、女の子が東京の街では一番ラディカルであり、最も多くの情報を持っていて、自由に生活を謳歌していると思われるからです。”
『東京遊牧少女の包』で夢想されている少女たちの軽やかな自由さに真に近づけるのは、仕事があり、(産み育てる身体を終えた)あるいは(産み育てない身体)である女性たちだというのは興味深い。少し大げさな言葉を使ってみるなら、呪いに気がつく前と、呪いが解けた後のような。果たしてこれらは現代女性のロールモデル足りうるのだろうか。最小限の暮らし、あるいは必要なものしか持たない暮らしは、自由さや豊かさに繋がるものか、それとも貧しさや寂しさに繋がるものなのか、どうにも判断がつかない。
この靄がかかったような感覚の原因の一つには、zoomイベントの中に出てきた言葉を借りれば「(ラディカルな暮らしは)健康でなくなった瞬間に継続が困難になる」ということがあるだろう。特定の施主を前にすればもちろん母親は階段の上り下りのない1階に自室を、などの提案が出てくるわけであるが、建築設計が一般的な身体を想定して行われる以上、前提とされるのは健康な身体である。健康な身体というのは、とりわけ言及する必要のない透明な身体でもある。
( 違和感を感じた瞬間に顕在化し、違和感を感じる前はなんとも思わない ) というわたしたちが自身の身体に対して持っている感覚は、空間に対して持っている感覚に近い。天井が低すぎたり、眩しすぎたり、床が滑りやすすぎるときに急に空間が顕在化するように、身体も違和感を覚えたときに初めて具体的に目の前に登場する。この、身体が急に不透明になる瞬間に直面しやすいのが( 妙な言い方ではあるが、ずっと健康でも慢性的に不調でもないという意味合いで )少女でも老婆でもない中間的な年齢の女性たちなのかもしれない。それはときおり不安がよぎり、急に胸にしこりがないか気にしてみたり生理が10日来てないことに疑問を持ったりする生活であり、ここで不透明になっているのは個人の身体を越えた、(現在の、あるいは将来の)家族という共同体に関わる身体である。共同体に関わる身体を持っているがゆえに、とりわけその間は、軽やかであることと無責任であることがときどきふっと近づいてしまう。
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03 高機能な身体 - 漠然とした空間
さて、性交・妊娠・出産・授乳を担う身体はそれだけを見れば子孫を望む家族に寄与する高機能実用家電のようなものであり、またしても妙な言い方をするならば人類の存続に( おおいに役立つ )ことは疑いようがない。ただこれらの役割を越えた機能的な人間として家庭内の誰かを扱うことは、いまや誤っていると言えるだろう。
ここで、zoomイベントで中村さんが言及していた、女性であり建築家であるマルガレーテ・シュッテ・リホツキー設計のフランクフルト・キッチンを見てみよう。システムキッチンの先駆けであるこの台所は、効率よく・低コストで・家事の負担を減らし女性を解放する思想に基づいて作られたものであったが、人間が1人で動くことに特化されたこのシステムは翻って、家事を担うものを狭い台所に閉じ込めてしまったのではないか、という議論も呼んだという。徹底的に手間を省くこと、これは現代の家庭においても、時短生活ガイドSHOWなるテレビ番組がお茶の間に流れていたように家事を担う者の関心を集めるトピックではある( 余談だが 母親は録画したこの番組を2倍速再生で観ていた、視聴者の鑑なのでは )。ただ、狭いキッチンの中最小限の動作歩数で家事をこなす身体をよしとすることは、人間の身体を高機能で最小限な家電達をつなぐ、同じく高機能で最小限なアームとして扱うことに近いだろう。
もちろん限られた空間・限られた時間のなかで同じ必要作業にかかる空間・時間は短縮すべきという話は理にかなっているのだが、家庭内での調理が純粋な労働になり得ない以上 ( 土日はお腹も空かなければそもそも問題はだいぶ小さくなる ) 、事務作業のように効率化して縮めてなるべく小さくして、という方向は結局面倒事を面倒なまま押しつぶしているような限界を感じる。最小限のキッチン、水まわりなどはあらゆる建築家が試していることでもあるのだが、例えば少々極端な例として移動できる水回り『Mechanical Wing』/ Buckminster Fuller を見てみても、なんて身軽な!というよりは、結局これだけの設備が重荷になってくるのねという、小さくしようとし続けてもかさばってしまう災害用リュックを見ている気持ちになってくる。
うってかわって、これまた何度もzoomイベント中に登場した高機能家電・SHARPの『ヘルシオ ホットクック』を見てみると、カレーやシチューはもちろんのことクリームチーズからカレイの煮付けまで炒めも油抜きもなんでも来いと言ったところで、高機能という言葉から連想される(なにかに特化したもの)という印象からは遠く、なんとも機能が漠然としているのだ。オオムギ、豆、レンズ豆、米、マカロニ、パン粉、あげくの果てにマギー社製スープ…とまで細分化して書かれていたリホツキーのキッチンの引き出しとは真逆の方向を向いている。
この( 漠然 )という状態が、ここからの家事と空間のキーワードになってくるような気がしている。zoomイベントも終わりに近づいた頃の雑談で、「巨大な大理石の天板があれば、パンもこねられるしチョコレートのテンパリングもできる」という言葉があった。例えばコセンティーノ社が出している大理石風高機能キッチン天板素材Dektonなどは、まな板も鍋敷きもいらず汚れるものも熱々のものも置ける代物で、人がキッチンでしでかすだろう大抵の行動に耐えてくれる。
漠然とすること、に対して建築の側から出来ることは、そういった技術的な側面から人間のわがまま気まぐれに耐えうる空間を作ることだろうか。なんでもできるだとか使い手の自由度だとか、そういった言葉は設計をなんでもありに押しやる気がして好きではないが、住宅の中でどこよりも、あらゆる温度・質感・成分を持つ素材の集まるキッチンという場所の耐性を上げていくことが人を自由にするとしたら、それは面白いかもしれない。
キッチンのための人間をもう一度人間のためのキッチンへ?いつのまにか、ひとつのボタンがひとつの機能に直結するような想像されるハイテクの時代は終わっていたし、男も女も同様に漠然とした多機能の身体を持っていることだし( 腕や手のひらなんてその代表格だ )、人がその身体を駆使して気ままに振る舞うための下支えを考えていけたらいいのだろうか。